硬式野球部時代の久保さんはどんな生徒でしたか? N: 選手としては「大器晩成型」だったと思います。体は大きかったものの結果がなかなかついて来ず、3年の春になってやっと試合に出られるようになった。彼らの代は、結果として県大会でベスト8と、遊学館野球部の中では始まって以来の振るわない成績だったのですが、久保は持ち前の頭の良さと理解力の高さで努力と練習を重ね、その県大会でもマウンドに立ちました。活躍はしましたが、試合としては残念だった。でも、あの時の悔しい思いをバネに、学業でも筑波大合格という大きな結果を残したんじゃないかな。 K: 遊学館では、自主練も含めて本当に一生懸命野球をやりました。硬式野球部は、当時100名ほど部員がいたのですが、僕らの代はピッチャーだけでも既にベンチに4人。 そこを3年になってベンチに上がっていくのはなかなか大変なことでしたが、練習試合などで使ってもらううちに、結果さえ出せばちゃんと認められると実感できたので、モチベーションも上がりました。
野球部時代の経験が、受験にも生かされた? K: そうですね。高校ではやりたいことを本当に一生懸命にやったので、目標に向かってのがんばり方を学んだというか。多分みんなは嫌がるであろうことでもコツコツやる、といった粘り強さみたいなものは、野球部を通して身につけたと思います。 N: 久保は、現役の時にも有名私大にいくつも合格していたけど、国立大に行く、ということで、敢えて浪人を選んだよね。 K: 高校時代は本当に部活一色だったので、勉強はいつも授業中やテスト前に“集中的に”(笑)。受験も、実は野球部を引退してからの数カ月で追い込みました。でも、「まだいける」「あと1年あれば」という手応えがあったので、浪人することは迷いませんでした。まあ、実際浪人してみたら「(合格していた私大に)入っておけばよかったかな」とは思いましたけど(笑)。 N: 結果、当初の志望校を超えてしまったよな。 K: センター試験の点数が取れたんですよね(笑)。環境的には、遊びに行こうと思えば行けた。でもそれをせず、勉強をやりたくないときでも我慢してやり切ることができたのは、野球で培った精神力のおかげです。そして、先生方や遊学館の仲間からの「お前ならできるだろう」という期待されている感じが、心地よいプレッシャーになったからだと思っています。
将来はやはり教壇に立ちたい、と考えていますか? K: はい。高校の時に、光雄先生(※学内に中川先生がお二人いらっしゃるため、久保は親しみを込めて「光雄先生」と呼んでいる)はじめ、たくさんの先生に激励やアドバイスをいただくうちに、先生っていいな、と思うようになりました。大学へ進学してからも3年間野球をやりましたが、大学の野球部は、遊学館時代の「先生と生徒」といった密な関係ではなく、完全に「監督と選手」。そういう環境の変化で、実は苦労することもありました。自分自身、遊学館ではやりたいことを目一杯応援してもらえたので、いずれ自分が教師の立場になったときには、やはり生徒のことを全力で応援してあげたい。要するに、光雄先生のような素敵な先生になりたい、って感じですかね(笑) N: おい、何か上手いこと言おうとしてるな(笑)
遊学館でチャンスをつかんだことが、今の自分をつくっている? K: そうです。もし遊学館でなかったら、野球にしても勉強にしてもそこまでがんばらなかったかもしれない。でも、遊学館では努力した人にはチャンスが与えられるんです。だから3年になっても試合に登用してもらえたし、その結果、県大会でも投げることができた。勉強にしても、遊学館にいなかったら、周囲の環境から「こんなものかな」と、早くから諦めていたかもしれない。ところが、学業の面でも先生方が評価してくれたから、「もしかしたら自分、できるんじゃないか」という自信が持てた。それが、遊学館で得られた最大のことだと僕は思っています。 N: 実際、野球に関しては毎大会メンバーが違うので、部員たちも非常に大変だと思います。ですが、それがコンスタントに成績を残すことができる遊学館の最大のポイント。生徒たちもそこがわかっているからがんばるし、僕らとの信頼関係にも繋がっていると思います。久保は、努力の結果大きな成果を出した。僕が好きな言葉『青は藍より出でて藍より青し』の言葉通り、これからも僕らを超えて、どんどん成長していって欲しいと思います。