金城学園を築いた4名の先駆者たち 金城学園理事長 加藤 晃
卒業生の皆さま!お変わりもございませんか。
昨年4月から使用を開始した新校舎4階の一番高い所に、二対の銅像が安置されています。
一対は創立者加藤広吉とその妻・せむの胸像です。
明治37年(1904年)、広吉は今の遊学館高校から500メートルほど離れた場所で、
少し大きめの民家を借りて金城遊学館を設立しました。
これは塾のような予備校のような学校でした。
当時、石川師範学校への入学を目指す青年男女が集まってきました。
この学校が翌年、認可をとって金城女学校となります。
明治39年ようやく女学校の認可をとって、これからという時に、広吉が病死しました。
そのあと妻加藤せむが金城女学校の経営を引き受けたのでした。
せむは苦労を重ねて女学校を経営し、明治41年にようやく今の地に女学校の校舎を建てることができました。
このあと経営の苦労はつづきますが大正13年にようやく金城高等女学校となります。
昭和6年せむの二男加藤二郎が東京帝国大学(現東大の前身)を卒業して、
金城高等女学校の教諭として金沢にもどって来ました。
このあと、せむを助けて新しい感覚の教育を高等女学校に持ちこみ、金城の基礎を作りあげたのでした。
もう一対の胸像は、金城の二代目加藤二郎とその妻・津ねの胸像であり、
作者は共に日展審査員・野畠耕之助先生です。
津ねの業績は、あまり知られていません。
貧乏な私立学校を経営する二郎を助けて、家庭科の先生をしながら、夜は学校経営の帳簿をつけていました。
さらに家では六男二女という八人の子供を育て、朝早くから夜中まで働きずくめの毎日でした。
津ね57才の時、二郎が急死し、昭和40年より金城家庭専門学校長に就任しました。
昭和43年、金城幼稚園教育専門学校の設置にあたり校長に就任、こうして学校経営を助けて来ましたが、
昭和46年この学校を金城保育学院と改称すると同時に退職しました。
その後は8人の子供に囲まれて、平和な老後を過ごし94才にて他界しました。
こうした4名の金城の先駆者たちの努力によって、明治・大正・昭和と少しずつ発展し、
さらには太平洋戦争とその後の混乱期を乗り切り、学園の基礎が確立されたのでした。
卒業生の皆さま!
ぜひ母校の新校舎を一度、御覧下さい。
そして、今も、金城学園を見守る4人の姿を見ながら、在学中を思い出して見て下さい。